お蕎麦屋さんで

僕の嫁さんは兵庫県の出身だ。でもあまり親しくない人から聞かれた時には兵庫県とは言わずに関西ですと言うようにしているようだ。決して兵庫県とは言わない。ましてや尼崎とは自分からは言わないようにしているようだ。
駅を出て嫁さんが心当たりがあるという「蕎麦屋」に行ってみることにした。前にSNSでみてずっと気になっていた蕎麦屋だという。最近はなんでもスマホで調べたがる。そして気になった記事や情報のリンクをLINEで送ってくれる。実はこれもちょっとしたいざこざのネタになりかねない。送ってもらうリンクには当然、ぼくが知らない情報ばかりなのだが送られてくるリンク先をすべてチェックしているわけには行かない。会社にいるとそれなりに仕事はしているし、会議や電話対応などしている時もあるからだ。そう言うときは「既読」にならないようにスマホのロック画面でも見れる情報だけ軽くみてメッセージ自体は後から開くようにしている。返信をしたくない訳ではなくて返信が出来ない状況にあるのだ。当然、中には見落としや見ても記憶に残っていない情報が発生することになるわけだ。すると、嫁さんから「この前、リンク送ったで、えっ!見てないん?」ともめるネタになってしまうのだ。不本意ではあるが見ていないものは確かにある。その点について見ていない理由、嫌見れなかった理由を状況説明から進めても決していい妥協点は見いだせないのだ。仕方なく「ごめん、見てなかったわ」というより他にない。


当たり障りのない返事をしながら嫁さんが目指す蕎麦屋へ向かう。お昼時を少し過ぎていたこともあって待たずに入ることが出来た。
「いらっしゃいませぇ~お二人様ご案内でぇ~す」、アルバイトだろう。学生風のお兄ちゃんが元気な声でテーブルまで案内してくれた。店内は食事を終えて話し込んでいる主婦らしい女性や、少し歳のいったご夫婦たちやらでテーブル席のほとんどは埋まっている。暖簾の先に見える厨房の中には数人の人影が忙しそうに動いているのが見える。
「何にしようっかなぁ~」嫁さんは蕎麦の種類で迷っているようだった。ぼくは「カツどんとざるそば」のセットに決めた。嫁さんは迷った末に「にぎりと鴨そば」のセット。
「お決まりですか?」テーブルまで案内してくれたお兄ちゃんがタイミングよく注文を聞きにきた。出されたお茶を飲みながら最近の嫁さん友達の話を聞く。ぼくは聞き逃さないように注意して聞いている。嫁さんはお友達の話題を終えてスマホをいじりはめた。注文して15分程度は経っているだろう。ぼくも少し気になって「遅いなぁ」とつぶやくと、嫁さんも「せやなぁ、混んでるのねぇ」
スマホいじりも続かなくなった嫁さんが座ったまま背伸びをするように周りのテーブルを見まして「あそこのテーブルの人たち、うちらの後から来たよなぁ~」不機嫌そうに聞いてきた。
「あ、そうやな、うちらのほうが先やったと思うわ」
「もう食べてるわ」嫁さんがさらに不機嫌になっていくのがわかる。ぼくにはこのような状況で前に苦い経験がある。注文した料理を遅れに遅れてもってきた店員に対して嫁さんが厳しいお叱りをされたのだ。一旦、心の中の怒りの炎が燃え出すと収まらないことをぼくはよく知っている。その怒りの炎に「正義」とい大義がある場合は尚更だ。この時もぼくはこの怒りの炎が噴火しないことだけを祈りながらスマホをいじりながら心の中で静かに祈りながら「おすしと鴨そばのセット」を待っていた。すると先ほどのお兄ちゃんがサンダルをぱたぱたと鳴らしながら注文した品を両手にもってテーブルにやってきた。すでに有に20分以上は待たされていた。「お待たせしましたぁ」と両手にもったお盆ごとぼくたち二人の前に配膳してくれた。頭をチョコンとさげて厨房へ戻ろうとするお兄ちゃんに対して嫁さんが顔をあげて声をかける。
「ちょっと待ちぃや」
「はいっ」ちょっと緊張と戸惑いの顔でお兄ちゃんが立ち止まる。恐らく本人の気持ちの中にも「待たせすぎた」という申し訳ない気持ちがあったのだろう。そこへ、「ちょっと待ちぃや」の一言だ。ドキッとしたに違いない。ぼくは二人をみながら「ヤバい、始まるわ」と覚悟を決めた。そんなぼくの気持ちは気にもせず、お兄ちゃんに続ける。
「お待たせしました、ちゃうやろ?」「あちゃーマジに始まるわ」ぼくはさらに覚悟を固くした。
「はいっ」さらにこわばった顔のお兄ちゃんが小さく返事をする。嫁さんが続ける。
「た・い・へ・ん・、お待たせしましたやろ?」そう言って嫁さんが笑いかけるとアルバイトのお兄ちゃんは安堵したように、「あっ、すみません。はい、た・い・へ・ん・お待たせしました。すみません」とすみませんを繰り返していた。繰り返すが、嫁さんは尼崎の女だ。