その一言が命取り
その日、僕は嫁さんと会社帰りに待ち合わせていた。事前に夕方から会議の予定があること、さらにその会議は長引く可能性があるのでレストランは会ってから入れそうなところにしようと予め嫁さんと申し合わせていた。待ち合わせの6時半という若者にとっては夕食が混み合い始める時間であることは十分に想像はできていたのだが、週初めの月曜日という状況がいきあたりばったりの中年に少し足をかけた夫婦にはきっとテーブルを提供してくれるだろう幸運に賭けたのだった。
案の定、月曜日の夕方のという週初めの会議は堅物の常務の一言で9回裏ツーアウトから延長戦に突入した。僕は思い気持ちのまま5時半の終業を知らせるチャイムがなる丸いスピーカーを恨めしそうに見上げた。『お前はいいなぁ毎日定時で終われるもんな』とアホなことを心の中で呟いてみた。そして事前に会議が長引くかもしれないと待ち合わせ時間に保険をかけていたことに少しだけ安堵した。そして「少し遅れるわ」と机の下で嫁さんにラインを入れた。
常務の一言で延長戦に突入した会議ではあったが他の役員や幹部連中も少し白けムードの様子を呈していた。それもそのはずだこの推し迫った期末の締めのタイミングで売上の数%程度しか占めない製品のましてや来季の予算にはさほど興味を示す幹部はいなかった。そんな会議のムードを察してか延長戦に突入した会議は専務のサヨナラタイムリーで6時前に終わった。
「ごめん、今会社出たよ」
「了解」すぐに返事が来た。
「たぶん、7時少し前に着くわ」
「オッケー」よかった。何とか機嫌は良さそうだ。久しぶりだもんなぁ〜こうして会社帰りに待ち合わせて食事に行くなんて、嫁さんよりも僕のほうがウキウキしてきた。電車を乗り継いで待ち合わせの場所についた。
「今電車降りたよ」地下鉄のエスカレータを上りながらラインを入れた。すぐに既読マークが付いた。返事はなかった。地上にでるとすぐに嫁さんが小さく手を振って合図するのが見えた。焦らすつもりはないがわざとゆっくりと嫁さんに近づいていく。随分前に何度もこうして待ち合わせしたっけな、そんな記憶が蘇ったきた。
「ごめんなぁ〜遅くなって」
「ううん、大丈夫」笑顔だ。本当によかった。僕は心からそう思った。
「さぁどこ行こうか?」
「ここは?」とスマホを差し出してアプリで探し当てたお目当てのひとつのレストランを示してきた。
「イタリアン?」きっと僕を待つ間にいくつのもコメントをチェックしながら候補を絞ってくれていたんだろう。嫁さんは決して自分の好みを押し付けたりはしてこない。常に僕の嗜好を優先してくれる。そんな時僕は心から感謝するのだ。
「いいね、場所は???近そうだし言ってみるか?」僕はいつものように左手を出して嫁さんの右手を取って歩き出した。ふっくりと柔らかい手の感触が幸せに思えた。常務の一言で延長戦に突入した時の絶望感と今この瞬間の幸せのギャップをあの天井の丸いスピーカーに見せつけたいと思った。
「あれ?髪、色変えた?」僕がそう言って左側の嫁さんを見るやいなや嫁さんが右手を勢いよく振り解いた。
「先週なんやけど」
「はっ?」
「あんたこの週末、気づいてなかったん」嫁さんの目が怒りで燃えている。僕はその日、レストランでアルコールは控えてテーブルウォーターのみにしておいた。